9/14(金)船橋市のふなばしハワイアンフェスティバル県内屈指のフライベント
誕生したのは東日本大震災の年、復興支援イベントとして
船橋市を代表する市民団体主催のイベントふなばしハワイアンフェスティバル。
運営組織は、市民らで組織されているふなばしハワイアンフェスティバル実行委員会とそれを支える市民ボランティア。
もともと、20~30代の地元経営者らで組織されていた街づくりチーム「ふなっち実行委員会」(船橋から地産地消を発信していくという趣旨で設立、現在はチームとしては目立った活動は行っていない)。
ふなっちメンバーらが定期的に集まって様々なイベントに出店・参加したり、メンバーが個々に行っている活動を紹介しあったりしている中で「何か自分たちのオリジナルな企画がやれたら良いよね」と計画されたのがフラ・ハワイアンのイベント。
この当時のチームメンバーは、TV東京系で人気番組だった「TVチャンピオン」での優勝経験、「東京スイーツコレクション」出場経験などを持つ菓子工房アントレ・オーナーシェフ(当時はチーフ)の高木康裕さん、お米マイスターで野菜ソムリエ、日本とイタリアを米で繋ぐ活動もしているあるまきの米店代表の牧野基明さん、一級建築士で東京造形大学で教壇にも立つ堀川設計舎代表の堀川成良さん。
船橋駅近くに「little Breads To Go」を構えるパン職人でパン作りを通して地産地消や地域活動に参加している古宮義和さん、現在は若手のモノづくり職人を束ね百貨店などにも商品を卸している道継代表、当時は二天一流総本舗代表の革職人井上正生さん、日本酒・地酒の専門店「矢島酒店」代表で全国の蔵元とも取引の深い矢島幹也さん。
当時はキロックムービー代表として映像制作をする若手が活躍できる組織を作ろうと会社を設立したばかりで、今は北海道のオホーツク地域を中心に地域おこし協力隊として活動しながら「道東TV」を立ち上げに奔走している立川彰さん、地元の経済団体で活躍、本業は父が起業したソフトウエアの開発会社エレメントシステムを切り盛りす、今回はふなばしハワイアンフェスティバル実行委員長も務めた茂木智弘さん、と僕・山﨑健太朗の9人。
実際にイベントを立ち上げようと動き出したのは良いけど、フラのイベントってだけでテーマがまとまらないままに時間だけ経っていった。
この間、いろいろな取材を通じて船橋の街に昔あった一大レジャーランドの「船橋ヘルスセンター」では、フラダンスが興業として日常的に行われていたらしいこと、船橋市内にはやたらとフラ教室が多い事などが分かっていた。
でも、フラの業界には通例があって、「ハワイで修行してハワイアンネームをもらってきている大先生の下に就かないとちゃんとした教室(ハラウもしくはハーラウと呼ぶ)ではない」とか、「この先生とこの先生は仲が悪いから一緒にしてはいけない」とか…
地域で活動しているとよくある事。
どの業界の人たちもここに来るまでの間にいろんなしがらみがあって、今って立場があるんだから当然といえば当然なんですよね。
問題なのが、「どこかの先生を代表に立てて、その先生の集客力と影響力だけでほとんどのフライベントが行われていた」という慣例。
メーカーの人とかイベンターの人がフライベントを企画することが多くて、大先生の系列の生徒さんだけが参加できる発表会が多く、新しく教室を作った先生とか、ハワイで修行したわけではない先生たちは小規模な発表会を開くだけで地元での活躍の場がなかった。
そうした実情をイベントを企画する中で聞き、「こんなにフラダンスが盛んな船橋なのに大きな大会を開催できないってのは残念だなぁ…みんなが輝ける場を作ろう!」とイベントの骨子が決まってきた。
そんな折、2011年3月11日がやってきた。
実行委員会を組織する前の「ふなっち」メンバーは、それぞれに仕事を持っていたが、材料の仕入れや顧客先の被災、事務所の被災などで大きなダメージを食らった。
もちろん、僕の会社も同様だ。当時入居していたビルに大きなひび割れが起き、壁がはがれ、パソコンが落っこちて壊れ、棚は倒れ、仕事は一時的にマヒした。
市内の様々な活動が中止になり、取材しているどころではなくなった。平和なニュースを書こうと思ってもみんなが困っているてネタだけしか出てこない。計画停電、地割れ、液状化、家屋の傾き、倒壊…
さらに、TVで東北地方の甚大な被害状況が毎日のように報道される。平和なハッピーニュースだけを追いかけている自分が嫌になるほどに悲惨な東北の状況が毎日のように報道されていた。
しかしこの頃、被災地の真っただ中にあるいわき市から「フラガール」の全国ツアーの様子が発信されるようになってきた。
「私たちは元気です。復興したらハワイアンズにみんなで来てくださいね~」と笑顔でフラを踊り、全国各地をPRして歩いている姿が印象的だった。
映画「フラガール」で、「常磐炭田」が「常磐ハワイアンセンター」に生まれ変わる時、松雪泰子さん率いるフラガールの女性たちが自分たちの地元経済の復興を信じて、家族を地元に残して全国を回って踊ったあのシーンと合わせて報道されているのを見た。
ふなっちメンバーはこの姿に感動した。
高度経済成長期に同じようにフラダンスとハワイアンで観光需要を喚起して成長してきた街「船橋」と「いわき」。
「今回のイベントは、東北地方の復興支援をキーワードにして、『フラダンス』が両都市の絆を深めていくというイベントにしよう!」初代実行委員長としてこのイベントの立ち上げに関わらせてもらった僕は、みんなにこのアイディアを話した。
口々に「そうだ。復興支援をやろう」と賛同。
ちょうど、震災のボランティアで東北地方に月に数回訪問していた僕は、ビックパレットふくしまで避難所生活をしている1500人に焼きそばを焼いた帰りに、知り合いを通じて宮城県郡山市にあるJTB東北の事務所を訪ねた。
事前に連絡していたスパリゾートハワイアンズでは、フラガールの全国興業はスケジュールが既に決まっているというので、これから生まれる船橋のイベントにまでダンサーを派遣することができないと確認をとっていた。
そこで、「ハーラウ・ラウラーナニ」というハラウの「リノラニ・あゆみ」さんという女性が宮城県を代表して全国を回り、復興に向かっている宮城をPRしているという話を聞きつけたので、彼女を紹介して頂けるよう直接交渉するためにJTB東北を訪れた。
当時のJTB東北の担当者の方は、「東北の為に、復興支援で協力してくださってありがとうございます。そういう趣旨でしたら、協力します!」と、すぐに連絡を取ってくれた。
当時、鬼もびっくりするようなハードスケジュールで復興支援をPRするために全国を不眠不休で回っていたあゆみ先生から連絡がきたのは数日後。
「船橋って千葉の?私の親戚のおばちゃんが船橋に住んでいるんだよ。奇遇だねぁ~。私の先生も船橋のららぽーとで踊ったことがあるって言っていたよ。縁があるんだねぇ~。その日だったら、私たちもスケジュール何とかなるから行きます!」って快諾してくれた。
※写真は2016年のハワイアンフェスティバル打上に参加してくれた時のあゆみ先生
ここから、ふなばしハワイアンフェスティバルの基本的なコンセプトが決まって動き出した。開催するのは9月の連休、まだ生まれてもいないハワイアンフェスティバルは、千葉市の中央公園で開催するハワイアンフェスティバルと日程がかぶってしまったため、ハラウ・教室が集まらないのではないか?という心配もあった。
蓋を開けてみると、20チーム600人を超えるフラガールたちがふなばしハワイアンフェスティバルにエントリーしてくれた。来場者は1万人を超えたと思う(そう発表したし)。
※2011年のふなばしハワイアンフェスティバルの様子
前日はほぼ徹夜。ステージや音響機材を守るためにステージの上で仮眠して夜を明かした記憶がある。当時の記事はこちら。
初回のハワイアンフェスティバルは、カンカンに晴れた日で風が強かった記憶がある。フラガール達が早着替えに使用するテントが風で飛ばされそうになったので、矢島さんと一緒に必死で抑えていた記憶が残っている。
そんなこんなで、初回のハワイアンフェスティバルのフィナーレ近くになって夕日をバックに踊るダンサーさんたちの優雅なフラを見て感動したのを覚えている。初代メインステージMCの葛西チャンが歌ってくれた、ダンサーの先生たちがステージに上がってダンスを披露してくれた。
※2016年のハワインフェスティバルの夕暮れ時ステージ
イベントが終わって、缶チューハイと、缶ビールで乾杯した。乾杯した途端に感動で涙があふれてきた。
※2016年のハワイアンフェス打上の写真
あれから、7年。今年のハワイアンフェスティバルも無事に盛大に終わった。
ふなばしハワイアンフェスティバルは、毎年1万人を超える人が毎年来場するほどの一大イベントになった。しかし、僕は2016年のイベント以来、実行委員会からは退き告知や取材だけに協力するようになっている。
イベントの立ち上げが好きで得意でそこに情熱を注ぐことに生き甲斐を感じている僕は、いま新しいチャレンジに向かって走っているからだ。
各地域に自分の街が大好きで、自分の街の事をPRしようと必死になって走っている人たちがいる。僕はそういう思いを記録したい。思いを発信したい。みんなに知ってもらいたいけどその前に自分がその思いを知りたい。そんなことを考えて、各地のイベントや街づくりの人たちに会いに行っています。